生活を切り売りする「人間」になるべきラインを考えよう、という話。 Auramorteの蟻坂(@4risaka)です。ご機嫌いかが。
最近はヴィジュアル系バンドのひとたちもみんなTwitterとかブログをやっていたりして、インターネットの活用がお上手だよね。
だけどね、90年台のヴィジュアル系バンドのひとたちと比べると、個人的にこれは変わったなぁって思うところがあるので、それをなーんとなく書き連ねてみるよ。
以前のV系のひとたちの印象
では、今の日本文化「Visual-Kei」を創り上げてきた偉大なる先人たちに抱く印象から。
なんだかよくわからない生き物
ひとことで言えばなんだかよくわからない生き物だったよね。
Xのメンバーの当時の姿でもいいし、ゴスロリを提案したMALICE MIZERの面々でもいい。とにかく彼らはその風貌とステージパフォーマンスが全てだったよね。
というのも、今と違って全然インターネットがなかったから、基本的に彼らを見られるのはステージとか、いいとこメディア(雑誌など)で、僕達の中では「ステージ上のあの姿」がインプットされていて、それしか見えてないことになる。たまにテレビに出ても、なんだか浮世離れした発言を見かけたり。
だから、あまり人間感を感じないというか、派手派手の衣装とメイクで決めたあの生き物として認識しているというか、そんな印象があったよね。
大げさに言うと300年生きてますとか薔薇食って生きてますとか言われても信じてしまいそうな、カリスマにも似たそういう「神秘的な存在」としてのアイデンティティが強かったように思う。
そこんとこMALICE MIZERのMana様はメディア上ではかなり生活感があったので(レトロゲームとか、カレーとか)、ギャップ萌え先取りしてたよね(?)。いやこの論理で言えばライブも結構フリーダムだったんだけど(自転車とか)。
神秘性をキープする人
まだMALICE MIZERを引きずるけど、GACKTさんは今の今まで神秘だよね。
いちおうバラエティ番組にも出るようになったけど、「格付け」における卓越した審美眼とか、Twitterにおける発言とか、大体いつまで経っても外見が変わらない謎とか、少なくとも普通の人間の生活感を基準にするといろいろとありえないライフスタイルが神秘を保っているよね。
彼に限らず、結構長く活動している人でたぶんアラフォー世代なV系の人達の中には、私生活の想像がつかない生きた神秘であることが結構多いなーって思う。
今のV系のひとたちの印象
対して今のV系のひとたちの印象。結構びっくりなので。
紛れもなく人間だ
さきほど紹介したパターンと違って大体しっかり人間してる。というのはね、こんな感じで生活感爆発だから。
- SNSで自撮り上げまくり
- すっぴんを晒しまくり
- 飯テロとか機材写真、部屋などを上げまくり
ジャパニーズ・ウサギゴヤ・レジデンスにお住まいだと考えたら一気に親近感が湧いて人間臭く見えるでしょ。自撮りを上げまくるのも、ファンサービスが積極的で素晴らしい一方、SNS承認欲求的なものをつぶさに感じてなんだか可愛らしいよね。
あとステージから降りると普通のお兄さんですよ感が出てるのがいいよね。すっぴんを結構出してる人も多いし。以前の人達はもう何が何でも絶対的にメイク・衣装を決めた「あの状態」こそステージネームと符合するような感じだったけど、今は必ずしもそうじゃない。
事実、SNSをPRとかブランディングに活用する場合、「個人が自由に発信できる」というのを最大限に利用する必要があるので、告知とかアーティスト的な話に終始するよりも、こんな風に「一人の人間である」ことをアピールするほうが個人のユニークさが出てよろしいんだよね。
このパターンだと、THE BLACK SWANの煉さんが成功パターンだよね。恐ろしく激しい音楽性なのに子猫を愛するそのギャップ!
神秘性とPRのトレードオフ
だけど落とし穴もある。「人間」を取る分量によっては一貫性がなくなるリスクがあるんだ。
どっちにする?
ここまでに比較した2パターンって、両方良いんだよね。アーティストとして神秘であり理想としてファンを導くその姿は、いかにも「芸術」として出来ている感じがして神々しい。だけど、「人として」ファンと距離感を近めに取ってわいわいと楽しむのも、音楽のやり方としては一つの正解。
悩むのは、これはどっちか片方に振るしか無いことなんだ。つまり事前の戦略が破綻するとどっちつかずになる。これが一番よくない。
人間臭さを出しちゃうとアーティスト性・神秘性を取り戻すのはまず不可能だし、神秘的な存在であろうと振る舞えば、人間臭さを出すのは徹底的に検閲しないといけない。欲に負けて自撮り上げるなんてもってのほかだよね。
となると、判断すべきはやはり自分で考えるということで、
- 自分のバンドは一体何を主張したいのか?
- どうありたい(≒ファンからどう見られたい)と考えているのか?
などの、結局このサイトのいろんな記事で書いている「哲学」に着地することになる。バンドでも音楽ユニットでもサークルでも、必ず目的があるはずなのだから、その目的に併せてどういう手段を取っていくのかを一貫すると、きっとファンも「おっ?」って気付いてくれるよ。
どっちつかずになるというのは、「なんとなくSNSで生活を切り売りして後に引けなくなる」みたいな状態に陥ること。「いいのか、それで」を問うてみよう。
一貫性がないのが一番ダメ
一貫性を持たないのは危ういと思う。アーティストとしても、人としても。
例えば「過激な歌詞とか音楽性だけど慈善活動の話をする」なんかは(極端な例だけど)、支持する人がもしネガティブさに惹かれているならテキトーかよとか思われてファン離れを起こしかねないから、こういうときは「神秘」サイドに振ったほうが良さそうだよね。
もちろん、今の例も「偽善者は攻撃する。我々は真に道徳的であろうとしているのだ」みたいな意図があるなら、それが伝われば「人間」サイドでも成功できそうだよね。「本当は優しい人なのにどうしてあんな表現を」と考えさせてみたりとかね。そこの細かいチューンナップを自分たちでしっかり考え抜くのが重要かなーって思った。
ほら、事務所の方針でメジャーデビューしたら急に爽やかになるV系バンドとか居たでしょ。で、そんな彼らを見て一部のファンは見限ったりするわけだけど、普段の発信とか行動はそういう動きがミクロに起こっているって考えるべきかなーって思った。SNSのお陰で皆いつも見てるのだから。
おわりに
そういう僕はこんなふうに散文とかオピニオンをよく書いたりするので、どちらかと言えば「人間」サイドに近いと思うんだけど、どうだろう?Twitterでも芸術性度外視のよくわからないTweetしてるし。