アウトプットが無いということはそういうことなのだと思い知った話。 Auramorte(@Auramorte)の中の人、蟻坂だよ。ご機嫌いかが。
SNSを断ってみた
今の世の中、スマートフォンがあればあっという間にヒトと繋がることができて、Twitter、Facebook、Instagramのようなソーシャルネットワークサービスがたくさんその橋渡しをしているね。
その一方で、繋がりすぎて「SNS疲れ」というものを引き起こす程度に色んな人とのコミュニケーションが過剰になっている側面もあって、その付き合い方はうまくやっていかないといけない時代でもある。
そこで、なんとなく1ヶ月ちょっとSNS、具体的には一番入り浸ってるTwitterを断ってみたんだけど、なんか本人が居ないところで色々あるのでそういう話をしてみるよ。
起こったこと
だいそれた見出しをつけているけど別に大したことは起こってないことを最初に断っておくね。
死亡説が発生する
なんかDMで生存確認された。勝手に殺すな。
確かに僕はだいたい一週間に3日くらいはTweetしていたので、なんの断りもなくその頻度が落ちるというのは客観的には異常事態。だけど考えてみて欲しい。
Twitterの日本の月間アクティブユーザ数は4,500万人(2017年10月27時点)。
いつも、そして何年もの間、Twitterをご利用いただきありがとうございます。おかげさまで日本での月間利用者数が4500万を超えました。安心してサービスをご利用いただけますように、一層の努力を行います。引き続きのご指導、ご支援のほど、よろしくお願い申し上げます。 pic.twitter.com/L96xQEnydU
— Twitter Japan (@TwitterJP)
単純計算で4人に1人くらいがTwitterユーザだと言えるわけだけど、複数アカウントとか企業アカウントなども含めると一個人がやっている数はもっと少なくなると考えられそうだよね。更に、ツイート数となるともっと少なくて、ちょっと情報が古いけど中央値で1,388(日本人ツイッターユーザー調査 2016年版)。毎日毎日つぶやいてるひとのほうがむしろ少数派だってことがわかる。
あと主観的なことを加えると、明らかに局所的な開催であるITのカンファレンスとか、特定の分野のひとしか知らないような新製品のリリースニュースみたいなどう考えてもこれTwitterユーザ全体の流行じゃないだろみたいなのが「トレンド」によく挙がっているのをみると、そもそもTwitterというのは全体を評価するにはあまりにも偏った母集団で議論してしまう罠が潜んでいると考えられるよね。
だから全体で見てみると「Twitterにそんなにいつもいるわけでない」のはむしろ多数派で、別に多少居なくなっても本来気にされるはずがないということが予想できる。
ということは、僕が1ヶ月位Twitterにいないと死んだことにされるっていうのは、「アリサカは毎日Twitterに居て、更にニッチな話題にもついてくる少数派」であると思われているかもしれないってこと。
……えっ、そういうことなの?心外……(白々しい)。
アウトプットしたものは生きている
さて、SNS断ちによってアリサカの人格が勝手に他人から消される可能性があることを示したところで、その一方で全く変わらない、つまり生き続けているものがあることも示唆しておこう。
そう、コンテンツである。
2〜3年前に個人ブログをつくって、もう目的を果たしたので割とほったらかしにしてるんだけど、SNS上でのシェアは止まらないし、広告収入も途切れることがない。実に安定したストックコンテンツとして「生きている」。
これはつまり、アリサカが本当に死んでしまってもアウトプットしたものは何らかの形で第三者に影響を与え続けるということを示していて、まぁそうは言っても形あるものいつかは壊れるから永久ではないけれど、少なくとも存在した証を示すための手段としてはこの上なく上等であることが再認識できた。
死の解釈の一例
ここで、じゃあ「死んだことにされる」、つまり「いないものとして扱われる」というのはどういうことかというのを、なんとなく考えてみる。
忘れられること
漫画「ワンピース」の名言にもあるけど、人に忘れられるというのは居ないも同然だよね。
これはあるお坊さんから聞いた説話の受け売りなんだけど、「仏壇やお墓の前で、ご自身に起こったことをちゃんとお話して、報告してあげるのは非常に大事」なんだそうだよ。なぜならば、遺族が仏壇やお墓を介して故人を認知し続けることが、その人という存在を認めてあげていることになるから、だそうで。
そのお坊さんによると、人は2度死を迎えて、一度目は肉体的な死、そして二度目は忘れられることによる存在としての死だそう。二度目の死を回避するためには、先に述べたような行いが大事だということだね。
「心の中で生き続ける」を論理的に説明できているよね。世の中のあらゆるモノに影響を与えず、さらに誰にも認識されない人がいたとして、果たしてそれは生きていると言えるのだろうか、みたいな。
キルケゴール的な?
哲学者のキルケゴールは、「死にいたる病とは絶望である」という有名な言葉を残しているね。
更に、人間とは精神であり、精神とは自己であるとも言っている。この「絶望」とは精神的な死を示すものであり、人間は精神だから、絶望によって肉体的な如何とは別に死ぬということだね。それこそが死にいたる病である、と。さっきのお坊さんのお話とも重なるところがあるね。
この「絶望」それ自体については、3パターンの類型を示しつつ理想と現実の差に延々と苦しむ様が細分化されていて、細かいところに入るとちょっと話が変わってくる。この記事の本質からちょっと離れるので言及はしないでおく。ただ、延々と絶望し続けると肉体的な死を選択したくなるのはなんとなく想像がつくよね。
もっとも、キルケゴールはキリスト教の教義ベースの考え方で、「絶望しないためには信仰をすることだ」みたいな結論に至っちゃってるのがちょっと「あれ?」な感じなので、引っ張ってくるのはほどほどにしておく。いずれにしても今書いたことの意図は直感的に理解できるはず。
おわりに
今回の一件でアンデッド属性が付与されました。
……じゃなくて、僕みたいな極北に居るタイプの生き物は、生きる意志があるならば忘れられないためになにか残していかないといけないということが再考できた。でも、「自己自身であろうと欲する」というのはつまり有限の寿命の中で無限にある上を目指す不可能への挑戦にほかならないわけで、絶望が手を伸ばしてくる。嗚呼、生きるってムズカシイ!